郵便番号のはじまり・その1

皆さん、郵便物を出すときに郵便番号をキチンと書いていますか?

郵便番号は郵便物を効率よく配達するためになくてはならないものです。ここでは郵便番号が必要になった背景と、実際にどのように導入されてきたのか見ていきたいと思います。

 

郵便物の量の増加

昭和30~40年代の日本は高度経済成長期にありました。経済成長していくにつれて郵便物の需要も増加していき、その後も増加していくことが予想されました。

それを証拠に郵便物の引受総数を昭和31年度と郵便番号が導入される前の昭和42年度を比較してみると約2倍近くに膨れ上がっています。

昭和31年度:5255772千通

昭和42年度:10074050千通(100億通突破)

-『郵政行政統計年数』より-

またこの時期は再開発により団地が整備され、高層マンションが立ち並び、配達する戸数も増えていきました。

 

効率化と整備

郵便物を効率的に配達するため、さまざまな工夫と制度の見直しや機械化の促進がなされていってます。

昭和35年→高層アパートの配達対策のため東京大森局区内の高層アパートを配達モデル地区に設定

昭和36年→3階以上の建物には集合受箱の設置するよう規定

昭和37年→作業効率アップのため封筒の寸法の規格(JIS規格)を整える

昭和39年→11月17日郵政審議会の郵便事業の近代化に関する答申。機械化の促進、郵便の種別改定、そしてここで郵便番号制の採用が盛り込まれる

昭和41年→郵便法の改正では自動区分機の処理の効率性を考え、郵便の形や大きさで一定の基準を設ける。定形と定形外に区分

 

郵便番号制の導入

先にも触れましたが昭和39年の郵政審議会の答申で欧米の一部で導入されていた郵便番号制の採用が盛り込まれました。

欧米の郵便番号制の中でも、特に西ドイツの制度を中心に研究が進められていきました。

翌年から昭和42年6月の最終案までケタ数や番号の振り分けの検討がなさ、翌月に郵政審議会専門委員会で郵便番号の付け方と記入方法が了承されました。

 

各都道府県を基準に

全国の郵便局の配達エリアごとに付番された3ケタの番号と、下2ケタの番号で構成されていました。

当初は4ケタで検討が進められていましたが、桁数はなるべく短くとしようと考え、郵便物の数の多い局は3ケタで、少ない局はプラス下2ケタで話が進んでいきました

まず3ケタの上2ケタは地域番号として都道府県ごとに区分されています。基本的に各県全域を一つの区割りにしていますが、一つの県を分割して各番号を割り当てられた県もあります。

上2ケタの数字は東京「10〜19」を基点にして付けられていきました。なぜ東京が基点になったかと言うと、単に日本の中心地だったからというだけではありません。

自動区分機が「1」という数字を読みとりやすく、郵便物の量が他の地域に比べて多い東京につけたほうが効率的に処理できるためでもあったのです。(「1」は数字のスタートでもあるので基点の数字にもなった)

郵便学者の内藤陽介氏の著書には

番号の割り振りに関しては、当時の郵便輸送の主力であった鉄道郵便輸送

の担当部門が担当した。当初は郵便番号と電話番号を連動させる

-これだと東京は「03」になる-

ことも検討されたが郵務局長の増山克己が「第一師団は東京」と主張した

ことから東京を「1」で始まる番号とすることが決定

「年賀状の戦後史」P134.1〜4行目 内藤陽介著 角川書店 ’11年11月10日発行

ちなみに昭和40年の郵政審議会(第3回)では

1と7、5と6

この2組の数字は書き方によっては誤読してしまう恐れのあることから、正確性を期すために抜くことが提案されました

ただ開発中の読取機は精度の高いものができそうということで0~9の数字すべて使われることになったそうです。

 

さらにこまかく

3ケタ目は上2ケタの数字で示している各地域内の郵便局の配達エリアを示しています。

3ケタ目が「0」は2ケタ地域の中心となる郵便局(一定基準を超えた郵便局)の配達エリアを示しています

3ケタ目が「0」以外は郵便線路の下り順で付けられました。当時の主要郵便線路は鉄道線路であるため鉄道輸送を考慮して駅順に付けられ、次に自動車線路、その他の線路に分かれて付けられました。

 

さらにさらにこまかく

3ケタ目の次にある下2ケタ(4・5ケタ目)は、一定基準に満たなかった郵便局の配達エリアを示しています。
この場合も3ケタ局からの郵便線路の下り順に付いています。

また下2ケタは私書箱・大口事業者・料金受取人払専用の番号としても付けられました。

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