郵便マーク -どのような流れで考案されたのか・その1-
“〒”は子供からお年寄りまで誰もが知っているマークです
地図の記号にも使われていますし、街中の郵便ポストにも見ることができます。
世間一般的にはあまり知られていませんが2月8日はこの“〒”つまり郵便マークの日に制定(?)されています
みなさん、知っていましたか?
特に重要な記念日や祝日というわけではないので知る由もないでしょうが・・・
なぜこの日が郵便マークの日になっているか、wikipediaの記載を見てみると
明治20年(1887年)2月8日、当時の逓信省は「今より (T) 字形を以って本省全般の徽章とす」と告示(明治20年2月8日逓信省告示第11号)した。ところが、2月14日に「〒」に変更し、2月19日の官報で「実は「〒」の誤りだった」ということで訂正されてしまったのである。
つまり、郵便マークが官報に掲載され世間一般の人々に初めてお披露目されたのが2月8日だったというわけです。(もっとも後日訂正されたので正確なマークがお目見えしたのは2月19日)
郵便マークの由来
なぜ“〒”になったのかみていきたいと思います。
横浜港に外国船が入港した際に、郵便物を取りに行く船が2隻ありました。
その頃の船に取り付けられていた旗印は当時の郵便マーク(赤丸に赤い横棒を刺したもの:外部リンク)がデザインされていました。
ある時、その郵便マークの意味を外国人に聞かれて担当者はどう答えていいか分からず返答に困ってしまったそうです。
これはいかんと言うことで、逓信省会計局長の山内堤雲と言う人が
『なんとかならぬか?お主、分かりやすい旗じるしを考えておくれ』
と声をかけたのが、中島泉次郎(会計局職員)というひとでした。
『(当時の郵便マークをみた)外人からあれは何に形採つたかといわ言はれるが、どうも返答に困る。今度一つ變へようと云う義が起つたが、君一つ考案をして呉れなければならん。まア大臣の處へ一つ來給へ、それで話を聴いたら宜からう』
―逓信協会雑誌 1940年1月(377号)中島談より
『榎本武揚子より當時小官が建築技術員たりし故を以つてその圖案を命ぜられたり』
―切手趣味 第4巻5号 1931年11月
日本郵船の旗をヒントに
その命を受けた中島がいろいろと思案していると、ふと思い出したのが横浜で見た日本郵船の船の旗でした。
『あの旗を見て、「ありや一体どんな意味だらう」ときいてみると「日本の船でせう、だから赤い線を二本引いて日本サ」とアツサリ言はれて、「ナル程、日本の船だから二本の線を引く、二本は日本か」と感心したことをフツト思い出しまして、それでは二本の線へタテに一本線を引けば
片仮名のテ
になる。日本の逓信これなら一ばんカンタンで分りやすいだらうとカラス口で〒を一つとモ一つローマ字でTを一つ・・・略』
―逓信協会雑誌 1940年1月(377号)中島談より・原文そのまま
「ニ本」引いたから「日本」だなんて(笑)ダジャレの方が説明しやすいし分かりやすいのかもしれませんね
『・・・・熟考の上でとTと〒ニ案拵(こしら)へました。丁の字、是はローマ字読みにして逓信省の逓の字でもあるし、漢字の丁の字にもなるからそれもよくないかと云うやうな話、それからもうひとつは二本棒を引きました〒の字、、是は片仮名のテの字・・・略』
―逓信協会雑誌 1940年3月(379号)中島談より・原文そのまま
つまり日本郵船の旗マークにヒントを得るとともに、“T”“〒”も逓信省の“テ”のかたちと適合し語呂も良かったことからこれを参考に考案したようです。
考案した2つを山内と一緒に逓信大臣榎本武揚に見せにいったところ“〒”の方がいいと言うことで正式に採用されることになりました(山内も“〒”を推していた)。
『この〒については、大臣がハツキリ「これがいゝ、これにきめよう」といはれたこと、〒は郵便船の旗じるしのために私が描いたものであると云うこと、この二つはまちがひのないことです』
―逓信協会雑誌 1940年1月(377号)中島談より・原文そのまま
考案者として
この“〒”は上記で書いたように郵便船の旗じるしのために考えたものであって、それが逓信省の徽章になるとは中島自身も思っていなかったみたいです。
まして官報に告示として載ったことも、“〒”が“T”で載って後に訂正されたことも知らなかったそうです。
ただ“〒”マークがいつの間にか日本郵便を代表する記号になったことに満足していたようです。
たしかに自分の考案したものがこれだけ有名で身近なものになれば鼻が高いでしょうね
〒マークについてはほかの説もあります→郵便マーク・その2