近代郵便のはじまり・その2

ヒルが出版したパンフは庶民に大きな反響を呼び、ついには議会をも動かすことになりました。

議会ではヒルと同じく郵便改革を唱えていたウォーラス(議員)が議長を勤めることになる郵便改革の特別委員会が発足し、ヒルも積極的にかかわっていきました。

もちろんこの一連の郵便改革をよく思わないものもいました。今も昔も変わりませんが野党(トーリ党)や郵便当局の関係者、そして国の財務関係者等がそうです。

しかし、世論が後押しとなり郵便改革の話は煮詰まっていき、無料の郵便の廃止や重量制など具体的にまとまっていきました。1839年7月に距離に関係なく半オンス一ペニー郵便制の法案が議会を通過し公布され、翌年の1月10日から半オンス一ペニー郵便制がスタートしたわけです。

ちなみに世界初となる郵便切手が発行されるのは同じ年の5月になってからです。発行初日には販売窓口も相当混雑し、売り上げも上々だったようです(ヒルよると1日で2500ポンドも売り上げた、との記録あり)

→ローランド・ヒルと世界初の切手はこちら(外部リンク)

 

その後

ヒルのもくろみ通り郵便物の総量は増えていきました。
ただそれが郵便当局の利益にすぐ結びつくことはありませんでした。

人件費などのコストの増大と、郵便料金の値下げの影響が大きく、需要の増大だけでは利益としてカバーすることができなかったのです。

前例がなく初めての試みになるので体系的な考えはあっても、実際にやってみるとそこに乖離が生じてしまうのは仕方のないことです。
事実、軌道に乗るまではなかなか利益につながりませんでした(収入・利益面で1ペニー制前の水準に戻るのはそれから数十年先のこと)。

しかし、この郵便制度は後の世、つまり現在にもつながる大きな郵便改革となったことは間違いありません。世界の各国でこれらの制度が取り入れられていったわけですから

 

文句は誰でもいえる

上記だけでは説明しきれないほどイギリスの近代郵便の道のりは奥の深いものがあります。

私が何より感心したのはヒルが出した改革案、これに至るまでの過程です。

客観的なデータ(時にはフランスのデータも使いながら)を元にして分析・検討し、論理的に問題の解決策を導き出していきました。

現在でもよくある、ただ感情的に批判するだけ、代替え案を出せない、視野が狭く揚げ足をとるだけの(壊すことはできても作り上げることができない)大衆とはまったく違っています。

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