近代水道100年記念切手
◆近代水道100年記念切手
基本データ
・オフセット五色刷り
・発行枚数2,500万枚
・原画制作者 郵政技官 森田基治
1987年10月16日に近代水道100周年を記念して発行された切手です。
江戸時代まで、人々は水を得るために井戸を掘ったり、川や池の水を汲んだりして飲み水を確保していました。
明治になると外国の技術が導入され近代的な水道が整備されるようになりました。最初に近代的な水道の設備が整ったのは横浜からでした。
水不足と不衛生な飲料水
近代的な水道が導入される前の横浜は慢性的な水不足に悩まされていました。
人口増加による水の需要が増えたこと、海が近く特に居留地周辺は埋立地であったため井戸水を掘っても塩分を多く含んだ水しか出ませんでした。
衛生状態の悪い飲料水を飲まざるを得ず、結果的に伝染病(コレラ・チフス・赤痢)が蔓延することになります。
木樋水道
そんな状況をなんとかするために横浜の有力商人が集まり民営の水道会社を設立。明治6年12月に多摩川の水を導水した木樋水道を完成させました。
しかし改修工事は行っていたものの木樋の腐食による漏水があったり、汚水の流入があったり、抜本的な水問題を解決するには至りませんでした(しかも水道会社も経営難に陥り、県に事業を引き渡すことになる)。
木樋水道は完成から約10年後には劣悪な状態になっていました。
H・S・パーマー
外国人居留地にいる各国の総領事からはたびたび水道改善の意見がだされていました。そういった状況の中で明治16年にH・S・パーマーという一人の外国人が来日しました。
H・S・パーマーはイギリスの陸軍少将で来日するまでは香港と広東の水道設計をした人でした。そのパーマーに設計を依頼し、指導のもと水道工事が進められました。
配水開始
横浜から約40km上流の(相模川支流である)道志川を取水地点に水を引き、野毛山に浄水場を設け市内に配水させることでした。
このころには水を引くのは鋳鉄製の導水管が使われました。
明治20年(1887年)9月に竣工し、同年10月17日に給水開始されました。
当初の配水地点は市内平坦地(関内・関外)に限られ、街路に沿って90m間隔で共用栓143基が設置されています。切手のデザインになっているのはこのときに導入された共用栓(獅子頭共用栓)です。
ちなみに水道利用料金は一戸あたり一カ月15銭前後。
外国人居留地には各戸に、富裕層向けには要求に応じて各戸に水を引きました。
有圧の水道施設にしたことで十分な水圧を得ることができたことから消火栓も合わせて設置されました。
効果
まず安定して水の供給を得られるようになったこと、沈殿池や浄水場のろ過等のおかげで衛生的な飲料水が使うことができ、コレラ等の伝染病が減少しました。
また飲み水の確保と同時に、下水道の普及にも貢献し、人々の生活は便利かつ健康的に過ごせるようになりました。
山手資料館前にある共用栓
(参考図書)
『横浜水道百年の歩み』 著・横浜市水道局 昭和62年10月7日発行
『祖父パーマー-横浜・近代水道の創設者』 著・樋口次郎 1998年10月発行 有麟堂
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