馬車から自動車へ-郵便物運送を自動車で-

ポストも赤けりゃ、郵便車も赤い

ただ同じ赤色でも周りの風景に溶け込んでいるポストに比べると、まちゆく郵便車は良くも悪くも目立っています。

白いライトバンの郵便車もありますが、多くは赤色に塗られています。郵便物の運送に初めて自動車が使われたときから赤く塗られたみたいで、当時の人たちはその自動車を見てどう思ったのか気になるところです

 

自動車輸送の嚆矢

郵便物輸送にはじめて自動車が使われたのは明治41年(1908年)12月15日のことです。

郵便逓送用自動車(東京中央局)

文化遺産データベース

導入のきっかけとしては

・年の瀬にかけて郵便物やお歳暮などの小包郵便などが増える

・年を追うごとに郵便物の量が増加していった

これらの状況に対応するためでした。

その当時、郵便輸送には馬車が活躍していましたが、欧米ではすでに自動車が使われていましたし、走力や積載量も馬車の比ではありません。

当然これを利省しようと思うのも自然な流れと言っていいでしょう。

帝国運輸自動車と契約を結び、東京中央郵便局を起点とした新橋間と銭瓶町分室間を、積載量1t半・時速8マイルの小型トラックで導入当初は2台で運行しました。

後日もう1台増やし、計3台で運行にあたることになります。

 

やはり馬車が主役だった

期待された自動車での輸送でしたが、故障が多く、思ったような成績を上げることができず短期間で打ち切りになってしまいます。

請け負った帝国運輸自動車(株)は『明治の輸入車』(佐々木烈著)によると明治41年2月に設立された日本初のトラック輸送会社だったそうです。

残念ながら事業はうまくいくことなく苦しい状況が続きます。

その理由として馬車による妨害が大きかったみたいで、しかも警視庁による厳しい取り締まりに遭ってしまったことから、結果的に輸送に時間が掛かってしまい、客足が遠のいてしまったようです。

やはり当時は馬車での輸送が主だったこともあり、同じ道を行き来するものとして思うように機動力が発揮できなかったのでしょうね。

その後も社長以下経営陣を刷新したり、資本金を減資したりするなどいろいろと手を打ってはみたものの、厳しい状況を脱することができずに解散してしまいます。※

 

その後

契約を打ち切ってしまい、また運送業務を郵便馬車に頼らざるを得なく、明治45年に再び郵便物を運ぶため自動車が利用されます。

運搬を請け負わせたのは日本自動車会社という会社でした。

この時に使用されたのは同社社長の石沢愛三に言わせると
『世界第一流なばかりでなく最も堅牢な車なり』と大絶賛しているイタリアのメーカー・フィアットの25馬力・積載量1t半の小型トラックで、お値段は8千円。

最初は慣れない仕事と言うこともあり、最初の方は決められた時間を守ることができず逓信省から始末書を取られまくったそうです(『一時は始末書を印刷して置こうかと真剣に考える程』大変だったみたいです)

もちろん車両は赤色で塗られていたようです。このこだわり(?)が現在にも続いているんですね

郵便馬車と共存する形はありましたが徐々に自動車輸送が主流になります。
逓信事業史(続第3巻)によると関東大震災を契機として、郵便輸送を含めた自動車運送が躍進。

大正15年2月には全路線の自動車化が行われ、東京中央局の厩舎課(郵便馬車部隊)が廃止され郵便馬車が姿を消すことになります。

 

※逓信事業史によると帝国運輸自動車会社は日本自動車に買収され、中央自動車に改称、日本郵便逓送に統合されるまで約30年間、専用自動車運輸に従事したとある



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